「はいこれ」
課長は俺にニコニコしながらそれを渡す。
「何ですかこれ」
面倒くさそうにその封筒を開ける俺に、奴はこう言った。
「出向命令だよ。有栖川クン」
「―― …はい？」
―― 何だそれは。
■* 序章 ： First contact.
「出向って…俺何にも聞いてませんけど」
つーか、朝からいきなりんなこと言われてもね。
封筒に書類を戻しながら不満そうに自分を見る俺に、課長は何事もなかったように言う。
「そうだったか？いや、すまん。最近忘れっぽくていかんな。ハハハ」
―― ハハハ、じゃねーだろーが。オヤジ。
知ってて黙っていたのが見え見えのその態度に、愛想をつかした俺はさっさとデスクへ向かう。
転勤だろうが出向だろうが何だろうが、今さら文句を言ったってどうしようもない。
今までそんな先輩たちをいっくらでも見てきた。
でもまさか、自分が同じ目に遭うとは思ってなかったけど。
「有栖川ちゃん。出向だって？」
デスクで封筒をカサカサやっていた俺のところへ、先輩の戸倉さんがやってきた。
「ええ。だそうですよ。まぁいいんですけどね」
「ほぉぉー。いいの？行き先見た？」
「見てません。どこだって同じですから」
「同じじゃないって。お前知らないの？」
貸せよ、と戸倉先輩は俺から封筒を引っ手繰った。開かれた紙を見て、先輩はニヤリと笑う。
「すっげー。やっぱねー。有栖川ちゃんカオいいもんねー」
「―― はぁ？何すかそれ」
「いやいや。こっちの話。はいよ」
先輩から紙を受け取ると、俺はその”出向命令書”を読んでみる。
『本局麻薬捜査部 有栖川 一琉に 特殊取締部 主任捜査官 の出向任務を命ず』
主任捜査官ってのがどうやら出向した後の俺の身分らしい。主任って事は、ちったぁエラくなったって感じもするけど。
でも。
「ここでキャリア積んで頑張るって言ってたのにねぇ」
戸倉先輩はうーむとデスクの上の紙を眺めた。俺も、何も言わずにその紙を眺める。
ここで偉くなってやる。と俺はひそかに（いや、周りもみんな知ってるけど）思っていたのだ。
他の先輩や同僚のように、適当に育ったらポイなんてされてたまるか。
―― なのに。
「…まぁでも、いいんじゃない」
文句を吐き出しかけた俺に、先輩はニッと笑って言う。
「ウチでおっさん化してくよりは、こっちのが楽しいかもよ？それに誰でも行けるとこじゃないしね」
先輩は胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、フタを開けたり閉めたりしながら紙をマジマジと眺める。
「あーあ…俺も外の空気吸いてぇなー、ここで飼い殺しよりはずっとかマシだもんな」
「…んな事いうなら俺の代わりに行ってもいいっすよ。これあげます」
紙をぺラっと渡す仕草をした俺に、先輩はカラカラと笑った。
「ムリムリ！俺じゃぜーったい無理だね」
「何でですか。俺より先輩のがずっとか確保率高いし」
確保率っていうのは、ターゲット（つまり容疑者）を捕らえる率の事。こんな風に昼行灯チックに見えても、戸倉先輩の確保率は本局でも５本の指に入る。
実際確保するまでのそのやり方だって、とてもじゃないが真似なんぞ出来ない。俗に言う『目的のためなら手段は選ばない』タイプ。
俺はそういうのがどうも苦手だ。だから"出向”なのかも知んないけど。
「行けば解るって。案外そっちの方がイケてたりして」
ニヒヒと笑う先輩の顔を、俺はものすごい不審そうな顔で眺める。
さっきから遠まわしに言うばっかりで、『特殊取締部』がどんな所なのかは教えてくれる気はないようだ。
「…まーいいです。どうせすぐに解るし」
「いつから行くの？」
ん？と俺を見る先輩に、俺は紙をガサっと見せてこう言った。
「明日です」
「…早っ」
まぁ…世の中そんなもんでしょ。こーなりゃ行くしかないし。
俺は諦め顔でその紙をカバンにしまったのだった。
+ ＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋ +
次の日。
朝10時ごろ行けばいい、と言われた俺は教えられた住所をケータイのナビで検索して新しい職場へ向かった。
んだけど…。
―― …何か違う…。
どう考えても、そこに公安局関連の職場があるとは思えない街並みに首を傾げながらその場所を探す。
今は昼間だから誰も居なくて閑散としてるけど、夜になったら酔っ払いの社会人や学生、そっち関連の綺麗なおねーさん達であふれ返りそうな通り。
こういう所を俗に言うと"歓楽街"と呼ぶんだろう。それはいいとして、こんな所に来る用事はないんだけど。でもなぁ…。
「…この辺？だよなー」
住所はこの辺りっぽい。でもそれらしき建物はナシ。ウソを教えられたんじゃないかと思いつつ、辺りを見回す。
すると、向こうから自転車に乗ったオバちゃんがやってきたので、俺は住所があっているか聞いてみる事にした。
「ここで合ってるわよ」
ホラここが２−５２で…と順番に店を指していく。
「２−５５…」
オバちゃんは店を指していってそれから俺を見た。
「あらー、なに？ここでお仕事なのー？」
ニヤリと笑って俺を見るオバちゃんの顔を見たら、何だかイヤな予感がした。
「はぁ…まぁ…」
ポリポリと自信なさげに頭をかく俺を見上げてオバちゃんは言う。
「んまー、このお店は人気あるわよー。この辺じゃ一番じゃないかしらねー」
―― 何のこっちゃ…。
訳が解からず首を傾げる俺を見て、オバちゃんは聞いてもいないのに説明してくれる。
「あたしこのそばで店やってるんだけどね、ウチに来るお客さんがよく話してくのよ。そりゃもういい男揃いだって。」
だから…。その意味が解からないって。うーんと考え込む俺に、オバちゃんはまだまだ話を続ける。
「若かったらあたしも来てみたいんだけどねぇ。もう無理かしらねーホストクラブなんてねぇ」
―― …はぁ？！
…ホストクラブって何だよ！
俺は呆気に取られて言葉が出ない。
「…やられた！」
小さく呟いた言葉はおばちゃんには聞こえてなかったらしく、俺の腕をバンバンと叩き笑っている。
「頑張ってねー。うちにもたまに寄ってちょうだい。この向こうの弁当屋だから」
値引き券あげるわ、とオバちゃんは俺に紙切れを渡して去っていく。
そういやそんな部署があるって、ウワサで聞いたことがある。
でも何でそこに俺が？！つーか、だから先輩も課長も何も言ってくれなかったんだとやっと俺は理解した。
「…Ｈｅａ…ｖｅｎ…？」
ありきたりというか、いかにもそんな雰囲気が漂う店の名前を読んでみる。
一面艶消しの黒壁に、細いネオン管で作られた店の看板。小さめのドアに、銀色の取っ手が光る。シンプルビューティーが売りなのか、それ以外には何も飾りがない。
「…やってらんねー……」
いくらなんでもコレはないだろ。こんな所で働く位なら、まだフリーターの方がマシだ。
何が嬉しくて公務員だっていうのに『水商売』で『ホスト』なんてやらなくっちゃなんないんだ。
「無理。帰ろ…」
辞めてやる。今ならまだ間に合う。仕事なんかいくらでも探せるし、別に"麻薬捜査官"の仕事にこだわってる訳じゃないんだ俺は。
そう思って部屋へ帰るべく、身体の向きをくるりと変えた。
振り返った視線の先に、誰かの人影が見えた。
顔を上げてその人を見た俺は、思わず動きが止まってしまった。
運命って、本当にあるのかも。
その時俺はそう思った。
"彼"が俺に言った最初の言葉。
「―― 何だ？帰るのか？」
ブラウン系が入った柔らかそうな髪がさらりと揺れる。
整った綺麗な顔立ちに、スラリと長い手足。だけど、男にしては小さめの背丈が何だか可愛らしい。
思わずその姿に見入ってしまい言葉が出なかった。
そうやって呆けている俺の横を通り抜けながら彼は口を開く。
「入れば？中で慶…じゃねぇ、課長待ってるし」
そう言われても、身体が動かない。何がどうなってるんだか解からない状況の上に、突然現れた”彼”に俺は混乱してしまっていた。
あん？とそんな俺を見上げて、彼はフフンと笑った。
「ああ、お前…何も聞いて来なかったんだ？」
クスクスと笑うその顔がまた可愛くて、ドキドキしてしまう。
っていうか、初対面の男に対して俺はなんでこんな反応してんだ。
コレじゃまるで―― …。
「しゃーねぇなぁ。ホラ」
きゅっと手首を掴まれて、身体がビクっとした。
それはびっくりしたとか、そんなんじゃない。そうじゃなくって−…。
―― ウソだろ…。オトコ相手に…何考えてんだよ俺っ…。
掴まれてる所が熱い。
こんな感覚久しぶりかも−…。
「…ああそうだ、俺、瑠璃沢っつーの、瑠璃沢涼。お前は？」
「あ…え…、あ…有栖川…一琉…です」
しどろもどろに答える俺がおかしかったのか、彼…瑠璃沢さんはまたクスクス笑った。
チリリン…とお洒落なベルが上で鳴る。
「どうぞ…。ようこそＨｅａｖｅｎへ」
ドアの向こうへ招き入れる仕草は"ホスト"そのものだ。
瑠璃沢さんはニコリと笑って、俺を見上げた。
それが始まり。
全ての始まりだった−…。
First contact.
ＥＮＤ